昭和43年7月30日 朝の御理解
神様を本当に信ずる人が神様から本当に信じられる
X御理解第三十節「神を信ずる者は多いが神に信ぜられる者が少ない」
神様を信ずる、神様を信じられない人も沢山ある。けれども信心を頂く様になって、いよいよ神様の働きとゆうものを、理論の上でも、又は体験の上でも神様を信ずる事が出来る様になる。ところが、その神様に信ぜられるとゆう事は大変に難しいとされております。けれども、その神様に信ぜられるとゆうところを頂かなければ、お道の信心を頂いて本当の幸福の道を開く事は出来ません。形のおかげを頂いて神様を信ずる事が出来る様になる。心の助かりを頂いて、神様を信ずる事が出来る様になる。心の助かりを頂いて神様に信じられる氏子になる。ですから、自分の心が助かる、自分の心が救われる、そこの度合とゆうか、それが神様に信じられる度合であり、程度なんです。自分の心にどれ程の安心か又は心に感ずる喜びか、そうゆう心のもの、心に感じておる喜び、心に感じておる安らぎ、それが神様の御信用を受けておる度合であり程度なんです。神様を信ずるというのは、やはり形のお願いをしておかげを頂くと、やっぱり神様のお働きじゃろうと、おかげじゃろうと云うようなところから「神様のおかげ」とそれを確信する事が出来る様になる。「この世の中に神様ちゃござるばい」と云う事になるのです。
そこで今、神を信ずると云う事はですね、神様のそうした働きを信ずると云う事と同時に、その神様がどうゆう働き、どうゆうおかげを下さろうとしておるかと、そこを知り、それを信じさしてもらえれる信心にならにゃでけん。唯、おかげだけを信ずるのでなくてね。神様はだいたい、どうゆうおかげを人間に下さろうとしておるか。どうゆうおかげを頂かして下さろうとする性質の神様であるか。
世の中には病気治し専門の神様もござる。災難よけのお守り札を出して、その災難よけだけに働きなさる神様もござる事になっている。この近所には足手荒神さんて非常に、昔からまあ、ゆうならはっこうしてござる荒神様がござる。足手荒神さんに祈願をたてる。いわゆる足、手専門の神様。そうすると少し向こうの山本と云う所には、生目八幡さんと云うのがござる。これはもう、目専門の神様。いわゆる眼科の神様と云われる訳ですね。小児科やら婦人科やらもやっぱりございますでしょうね。お産の神様、善導寺のお善導さまなんかは婦人科でしょうね、きっと。もう妊娠すると、必ず母親が娘や嫁さんを連れてお参りをする。これは確かに婦人科の事だろうと思う。そうゆう様に、様々な神様のござる中に教祖が現しなさったとゆうか、現れなさったとゆうか、教祖の上に表れておいでる金光大神をとおして拝んでおる。天地金乃神とゆう神様は、どうゆう神様であるかとゆう事を知らねばいけません。天地金乃神様と云うから、商売人の神様、金の神様と大阪あたりでは云うそうですね、一般に。そう云えば、もうとにかく大阪と云う所は、商人が非常におかげを受けておる、金光様によって。四国あたりにまいりますとね、婦人の神様、お産の神様。もうそれは大変な信心のない者でも、例えば、この辺で善導寺様を信じとるように金光教の信心を信じとるそうです。そのやはり、専門、専門がないと云えないですもんねえ。例えば、私が同じ金光様の信心を頂いておりますけれども、ここではほとんどが商売の人が多いでしょう。こうゆういわば、田舎の真ん中にありながら、商売人が多い、殆どです。純お百姓さんと云うのは少ない。久富さん位のものでしょう。こんなに沢山おる中に。百姓しておりますけど、なんか事業しておるとかね、商売をしておる人が多いのです。ここ合楽はある意味あいにおいては商売専門の神様かもしれませんね。
先日から私ふっと気がついた事なんですけど、次々とこの頃、お産のお届けがあるんです。ほんとに安産のおかげを皆頂いたんですけれどもね、こちらも気がついたんですけどね。合楽にきてからお産のお届けがあります。おかげを頂きますけど、何とはなしに、難産系の感じですね。いわゆる「隣知らずの安産」のおかげが受けられると。「此の方の道は喜びで開けた道じゃから、喜びでは苦労はさせん」とおっしゃる。お産をする事を喜びと云う。そうゆう様なところから、四国あたりでは、お産の神様と云うじゃないでしょうかねえ。お産だけは金光様にお願いしときゃ、お産では苦労はさせんとゆうのです。「この方の道は喜びで開けた道だから、喜びでは苦労はさせぬ」喜び事、ねえ。とゆう様なことがそうゆう風になっての御神意が、ここでは皆おかげは頂いているんですよ。流産にもならなければ死産にもならんで、おかげを頂いているんですよ。流産にもならなければ、死産にもならんでおかげを頂いているんですけれども、何とはなしにですね、この「隣知らずの安産」になっていないのに、私ちょっと気がついたんです。この頃日々、毎日、いくつかのお産のお届けさせて頂いてから思うんですよね、先日から、福岡の渡辺先生の所が三日間位、病院に行かれて、もよおしが、もう始まってから、すぐ出来るはずだったところが仲々出来ない。そこで電話がかかってまいりまして、山口の方から来ておられますから、先生、あちらの方に行っておられたんですよ。そしてあちらから電話がかかってまいりまして、開復手術をする、いわゆるおなかを開いて出すとゆう訳なんです。「まあ、お医者さんにかかっておるんですから、お医者さんの云われるとうりにせなでけんですね」と云うて、まあお電話で話ましたけど、一心におすがりさせて頂いたら、それから間もなくすぐ生まれた。大きな男の子が生まれた。いわゆる難産であった。生まれる事は生まれたが難産であった。生まれる事は生まれたが難産である、かんじな。現在の原さんの所が今度又、初産、どうも難産の傾向がある訳なんですねえ。そこでもう、一家中あげてですから、今度生まれました子供のおじいさんである原さん、おばあさんになるところの原さん達夫婦はもちろん、御主人であるところのしょういちろうさんは、もちろん一生懸命日に何回となしに御参りがある。ところが生まれん。そこで私、気が付いたんですね、その夜の十二時頃休みます時にですね、ほんに昔、椛目時代にはお産のお届けにいって、あちらの奥さんと会っただけでもう、皆が安産すると云うてから、そうゆう迷信が生まれる位あったんです。ところが、こうやって広うなりましたもんで、仲々奥さんと会う事が出来ん。裏まで行かないけん。それでいつの間にかそうゆう事を云わないようになってしまった。家内もやっぱりそげん云われると責任を感じるらしいんですね。「今日又、お会いしたけん、安産のおかげを頂くでしょう」とこう云うてきめこむ。そう云われると家内もやっぱり安産してもらわなければと思って、特別なやっぱり信念が出来る分けなんです。本当に安産のおかげを頂きますように、皆が。ところがこちらへまいりましてから、私、家内のお取次頂かないかんと思った。私、家内に頼みました。「これは男の願いでお産だけはいかんごたあ、どうぞ一丁、原さん方、もういよいよ間近だから、お前、お願いしてくれ」家内も休んでたけど、わざわざお広前に出て参りましてから、それからお願いを致しました。昨日の朝、?丁度一時に生まれておりますですね。と云うようにですね、やはり、そうゆうその自分自身がおかげを受けたと云う事がね、だいたい専門になるような感じがありますね。同じ金光教の信心でも私共の家内が七人の子供をもっておる。二人の子供はまあ、難産でした、長男、長女は。長男なんかは死んどりましたから、産婆さんがかまいませんでした。もう死んどるとじゃから、もうボロに包んでから、室の隅の方へおいておった。とにかく、もう母体の方が大事だと云うので、一生懸命、そしてまあ、母体の方が大丈夫となってから、きたところが本当に仮死状態、それをいわゆる報告したところが、「ぎあ」と声を出して泣きました。「あっこれ生きとった」と云う事。だからもう、儲けもんだった。ところがですね、今考えてみると、その私の信心、家内の信心の、信心の程度ね、三番目の愛子が生まれた時、引き揚げて帰って来る時、大きなおなかして帰ってまいりました。ここには、二人もこうやって生まれてる。しかも逆児だった。ところがおかげを頂くと云う事は大変、そしてまいりましたけど。ついでだから聞いて頂きますとですね、北京でですねかかっておりました産婆さんが、大分に引き揚げて帰っておると云う事は聞いておりました。それがたまたま夫婦で私共の所に尋ねてきたんです、ある用件で。私その時に思いましたですね。これはこの産婆さんがきてくれた時に生まれるにゃよかなと思うぐらいでした。毎朝、朝の御祈念に御参りしましょう。その自分はまだ、神様にお知らせ頂く訳じゃないです。けども、一生懸命、御祈念させて頂く訳です。只一生懸命、御祈念するだけ、すると朝の御祈念の時には、御理解を先生がお読みになるとにですね、お産の御理解でした。その朝が「はあ、今朝生まれるなあ」と私思うたです。それから、あの家に帰りましたら、産気ずいておりました。前の晩から、泊まっておるその永江という産婆さんが「はあ、お父さん、私が引き受けた、もう大丈夫」と云うてくれる訳です。この人は北京では有名な逆児専門の産婆さんでした。それから、私は朝の御祈念から帰ってから、すぐお願いに参りました。そして御祈念中にですね、にわとりの鳴き声を頂いたような感じがしたです。御祈念をしよったら、今考えてみると心耳ですね。心の耳に響いたわけ。そして時計をみたら何時何分です、私はそれからすぐ帰ってまいりました。そしたら、御主人の方が表へ出て待っておりました。「大坪さん生まれた、生まれた」何時何分に生まれた。何時何分私がにわとりの声を聞いたのと一緒だ。しかも、首にはね、もう大変な思いをして帰ってきておりますもんですから、たわげころげして帰ってきておるから、云うなら首に二重もまいていた。それでも安産は安産、それからと云うものは「隣知らずの安産」私共はそれから5人ももっておりますけども、本当に安産、いわゆる「隣知らずの安産」もうですね、最後の頃には快感を覚える位にあったと云う。生まれる時になる程、教祖様はうそをおっしゃらない、本当の信心に段々こちらがなってきたらですね「隣知らずの安産」のおかげを受けるようになる。もうその5人の安産のおかげを頂く話をするなら、まあだ一話あるでしょうね。もう本当に「隣知らずの安産」のおかげを受けて、自分自身が頂いてきておりますけん、こりゃお腹を痛めとる家内が一番実感的、ねえ。
ですからお願いするでも実感と云うのは神様に通じる、我が身がおかげを受けた事を人に伝える訳だからそうゆうような意味でやはり「先生が肺病で助かった所には、肺病患者が多いと云われておりますけれども、やっぱ同じ金光教の信心をさせて頂きながらも天地金乃神様を拝まして頂きながらも、その人がおかげを受けたそれがおかげ。私はこんかぎりの貧乏してきましたから、そして現在では限りのないおかげを頂いとりますから、ここにはもう無尽蔵のお金の徳の受けられる信心修行を、皆さんがしておられると同時に、そうゆうおかげが受けられると。いわばここは銀行にごたる教会だと私は思う。だから、そこから大黒様と云うごとなったかもしれませんね。合楽の先生は大黒様と皆が必要に応じて金だけではないですけど、お金から打手のこづちで打ち出されてくる様なおかげになったと、そうゆう事によって神を信ずる事が段々出来る様になり、それから神様を信じられる。段々おかげを受けておるとゆうものを、自分の心の中に感ずるのは、どの様な場合でも驚かんで済み、どの様な場合でも安心しておられる。どの様な場合でも目をつぶって「金光様」と唱えれば喜びが湧いてくるとゆう様なおかげを私自身がおかげを受けておるとゆう事は、この程度に神様の御信用を私が受けておるなとゆう事を感ずるのです。そこで私は思うんですけれども、まずひとつ皆さんが神様を信じられる信心、神様を本当に確信出来れるおかげを頂くために形の上にお繰り合わせを頂かないかんです。唯、おかげを受けられるとゆうのでなくて、大体この神様はね、どうゆうおかげを願っておられる神様かとゆう事をまず知らにゃいけません。それは、私共には想像もつかない実際は。いわば私共が夢にも思わないおかげを私共の上に下さろうとしておる。そこをひとつ信じて頂かないかんと思う。自分の願いが成就するとゆうのは、たとえどの様に大きな願いであっても、その願いは神様の目から御覧になれば小さい願い。神様が下さろうとするおかげ。
最近真実と、真実とゆう事が沢山ある中に、素直になると云う真実、素直になると云うだけで、人間が幸福になれとゆう真実、その素直さが底がぬけてくるともう、無尽蔵限りのないおかげに雲の上にまで上っていけれるおかげが受けられる真実と云って2~3日前のお昼の御祈念に頂きましたですね。そうゆう意味あいにおいてですね、こうゆう真実がある、真実はいくらもありますね。例えば、これは人間関係の事に致しましょうか。子供が云う事を聞かない、家内が自分の思う様にならない。主人が自分の思う様にならない。こうゆう時にですね、どうぞ私の思う様に動きます様にと云うて、願って、それに努力した分ではおかげにならんとゆう真実がある。子供がどうぞ親の云う事を聞く素直な子にならして下さいと云うて自分の思うどおりにしようと思うても、自分の思いどおりには絶対ならないとゆう真実。これはどうぞ神様素直な子にして下さいと云うて願い、素直になる様に素直になる様にと云うて、人間が教導しようとする。もうそれこそへとへとになる位に親が頑張ったっちゃ、絶対おかげにゃならんです。おかげになったごたるだけです。今頃大分私が厳しゅう教導するからしつけするから、素直になりましたと云いよるけれども、絶対素直になっとるのじゃない。よく私も家内に云われる。少しはあなたが云うて頂かにゃと云う訳なのです、子供たちに。私はその真実を知っているから、それは人間ですから云いたい事もあるです。けれども云うちゃおかげにならん事を知っておるから、私は云わんです。だから、それをひとつ信じてください。云うちゃおかげにならんとゆう事を信じる。子供が例えば求めてきた場合、そん時に云う事は別ですよ。云うた事が向こうに入れば別です。もう云うてみて、向こうに入らないならば云うちゃならん。そこで、その子供の姿を親が見てです、こうゆう事では、この人のいく先が思いやられると思うなら、思う程に神様にすがっていくと同時にすがっていくとゆう事は、私が改まっていかにゃ、子供の為に私が改まっていく。私が一心の信心せにゃいかん。私が修行せないかん。そうゆうあり方にならせて頂くとですね、子供は、もうこれは想像もつかない親の思いと云うか、願いとゆう以上のおかげの受けられる真実があります。絶対なものとして、云う事をきかんのは、自分が教育しようとしておるから駄目なんです。だから、放任しとけじゃないです。親の情としては、やっぱり放任はできない。だから、それだけの願い思いがあるなら、もう一度、云うたりおごったりする二重の親心を以って神様にすがってゆく。そして自分が改まっていくとゆう生き方になれば、もう子供は親の願い以上におかげを頂いてくる様になります。そこで神様に自分の思いとゆうものを捨てて、思い以上の修行さしてもらう。思い以上に神様にすがらしてもらえばです、なる程夢にも思わない様なおかげになってくるのだとゆう事を信ずる事が出来る。私は、神様を信ずるとゆうなら、そう、そこのところを、神を信じていかないかんと思う。唯、お産の神様を信ずるだけじゃいかん。万事、お金のお繰り合わせの頂ける事だけは間違いない。手形でんなんでん、もうきちっとおかげ頂くと、それだけを信じたんじゃつまらん。そこんところが皆さん間違えない様にしなさいよ。子供の事は、神様にお願いしとるけんでと放任したんじゃいかんのですよ。云うて聞かせたり、しつけをしたりする以上の思いをもって修行をし、神様に向こうていく事なんだ。そこでそれはどうゆう事になるかと云うと、自分の思いを捨てるとゆう事なんだ。子供に対するところの「ああ、あってくれればいいのになあ」とゆう思いを捨てて、神様にどうゆう御都合があるやら分からん。それで神様の御都合のままに、子供をお育て頂く為に私が修行させてもらう。今日は、子供と、人間関係の上でも、親子の事を解きましたが、その事がです、全ての事にかかわってくるのです。だから云えば云うただけ自分が教育したら教育しただけおかげは受けられんとゆう事になるのですよ。教育しただけ出来よるごたるだけです。決して本当な事のおかげになっとらん。それじゃ親も子も本当の幸せにはつながらん。
昨日ある方が子供が学校がでけん、だからもう、そりゃお母さんがひっつかまえてギュウギュウいわせて勉強させよる訳です。だからなお、子供は勉強をせん訳です。まだ小学校の一年生です。お母さんが負けん気なもんですから、よそんとより、よう出来なんと思うとる。いわゆる教育ママさんです。昨日、ここでお届けするのにです、家庭教師など雇ってからさせると云う、「まあしようと思うならしなさい」と「そうばってん、それが勉強出来る事になっても幸福にはつながらんよ」と私は申しました。教育とゆう事によってですね、でけんとが出来るようになるかも知れんばってん、問題は幸福につながらなければいけんでしょうが、頭さえようなれば、勉強さえでければ幸福になるとゆう事はなかっちゃから、そりゃでけんより出来た方がいいからお願いもせんならんばってんですね、そうゆうような生き方ではいかんてゆうてまあ、私お話した事ですがね、それだけの母親の子への思いがあるならば、自分がいっちょ信心の勉強を本気でさせて頂かにゃいかん、ひっつかまえて押さえて教える時間があるならとにかく子供はどげん悪さしよったって、遊びよったってよかけん、合楽へ参ってこないかん。そうゆう生き方でいきゃ全部おかげ頂くとゆう真実を知らない、だから云うて聞かせたっちゃ分からん。そうゆうですね、意味においても体験を皆さんが積んで、いや云うだけではおかげにならん。言いたいならそれだけのものを神様にもっていかにゃいけん。
これは例えば最近の例では、久留米の佐田さんなんかはそうですよ。奥さんの方が信心が進んでおると人が云う。自分もそげん思うたっちゃか分からん、主人も「お前は、明神様じゃけん」と云う風に?たててあった。だから、家内のゆうようにできんわけですよ、それで奥様としては、それがはがいいしてたまらんわけです。「あなたこげな事ではどうしますか」と云うていつもケツをたたけばたたく程悪い。そこである日神様から口なしの花を頂いた、ひこさんガラガラのおしらせを頂いた「はぁ、口ばっかしじゃいかん、口なしにならにゃいかん」と云う事を本気で思うていわば主人に対してだけは、言わずに祈ろう、自分が祈ろうとなった。ところがどうですか内容が自分以上のものをもって開けた上に信心の方も熱烈になってきたわけです。そこでそうゆう真実を佐田の奥さんは握られたわけです。いや、云うだけではいけん、そげな事思うなら、主人を思う思いがあるならある程、神様に向けなければいけないとゆう事、そうすればこうゆうおかげを受けられるとゆう真実を体験されたわけです。ですから、そこんところを信ずる。ですから、神を信ずるとゆうのは、そこを信心させて頂くおかげを頂きたい。私は今日そこを申しましたねぇ。そして、それを信じ、例えば佐田さんの場合するならば、主人が本当の信心になってまいりますようにと祈る、只、祈るだけではない。その為には私が修行致します、私が改まります、とゆう所に何が生まれてきたか、神様に今度は奥さんが信じられなさるものが生まれてきた、そうでしょうが。改まっていく、本気で修行する。その事を神様が見逃されるはずがない。そこで神様が、今度は佐田恵美子さん、その人を信用されるようになってきた。神様を信じる事ができるようになっただけではなくて、神様から今度は信じられる道もそこから開けてきたとゆうわけです。そこに私は「神を信ずる者は多いが神に信じられる者が少ない」心の上にいつも喜びが頂ける。自分の心の上にいつもどの様な場合にも驚かんで済み、安心しておれるといった様なものがです。心の上に段々頂けてくるとゆう事は、それは神様に信じられておる程度である。さぁそこで、皆さんがこうやって日々信心の稽古に通うてみえるが、ひとつ本気で教会修行でもさして頂いておると思うてです。その事に専攻しなければいけないとゆう事です。
例えば、そんなら人間関係なら、人間関係とゆうそのひとつに焦点をしぼってです、本気で云わん、云わずに自分が改まっていく、そこにはお母さんならお母さんが子供にかけておった思いとか願い以上の事に働きが始まってくるのだとゆうところをです、体験しなさらんとですね、唯、神様を信ずる事は段々出来てもです、神様から信じられるおかげになってこない。神様を信ずるものは、どこを信ずるのか、お産だけは間違いないか、金銭のお繰り合わせだけは、もうきちっと下さる、とゆうところだけを信じたんじゃつまらん。こちらがこうゆう状態になれば、それは子供だけの事じゃない、人間関係の事だけじゃない、全ての事におかげになる事をです。私は自分の身をもって、それを実証してゆくところのおかげ、そうゆうおかげを頂いていきたいと思う。「神を信ずる者は多いが神に信じられる氏子が少ない」まず神を信ずる為の信心修行がなければならない。そして、神様からいよいよ信じられるとゆう事は、それはそのまま御神徳とゆう事である。その神様から信じられるとゆうおかげを受けなければ人間の真実の幸福とゆうのはありえない。「あの世にも持っていけ、この世にも残しておける」とゆうのは、神様に信じられた程度だけが持っていけるのであり、残しておけるのであります。どうぞ。